観客ファーストの花火大会と、受け継いできた花火に込める想い。菊屋小幡花火店の熱き情熱

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夏の夜空を鮮やかに彩る花火。その美しさに魅了されたことは誰もが一度はあるだろう。だが、その背後には膨大な努力と緻密な計算が隠されている。1872年(明治5年)創業の菊屋小幡花火店は、初代小幡忠英から現在の5代目へと代々受け継がれてきた。特に4代目の清英さんは「四重芯菊」を完成させ、多重芯ブームの火付け役となった名工だ。2003年(平成15年)には黄綬褒章を受章するなど、その技術力は内外に知られている。

今回話を聞いたのは、菊屋小幡花火店5代目の小幡知明さん。「花火が上がる世の中って平和だ」という言葉の背景には、コロナ禍で打ち上げた花火が人々に希望と癒やしを与えた経験がある。花火の一瞬の輝きで人々の心を揺さぶる瞬間を追求する彼の姿勢は、まさに日本一を目指す職人魂そのものだ。

菊屋小幡花火店・代表取締役 5代目の小幡知明さん
菊屋小幡花火店・代表取締役 5代目の小幡知明さん【撮影=阿部昌也】


これからの目標は、日本を代表する花火屋としての地位を確立し、さらに海外展開も視野に入れているとのこと。壮大な夢を抱きつつ、一つひとつの花火に心血を注ぐ知明さん。彼が描く未来の花火は、どんな光景を見せてくれるのか。菊屋小幡花火店の歴史や現代の花火への考え、そして花火にかける想いについて詳しく話を伺った。

花火と共に歩む 菊屋小幡花火店の伝統と革新

――菊屋小幡花火店について教えてください。

【小幡知明】菊屋小幡花火店はおおよそ明治5年から始まったとされています。過去の資料に明治5年という表記があり、それが一番古い記録です。しかし、実際にはもう少し前から始まっていたのではないかとも思います。初代は学校の先生をしながら花火作りをしていました。「小松流」という名前は、小幡と松田さんの頭文字を取って名付けられたものです。私もその話を聞く前は、秋田の小松煙火工業さんと関係があるのかと思っていたのですが、実は単純に小幡さんと松田さんが始めたという話でした。初代から引き継がれ、私は5代目になります。

【写真】打ち上げ現場では必ず着用している、藍染の半被。大輪の花が咲く背中が目印
【写真】打ち上げ現場では必ず着用している、藍染の半被。大輪の花が咲く背中が目印【撮影=阿部昌也】


【小幡知明】歴史は古いですが、先々代、3代目が40代半ばのときに亡くなり、私の父である先代は当時まだ中学生でした。そのときは、私の祖母が女花火師として頑張って続けてきました。先代は秋田の大曲の競技会やそのほかの競技会で大きな功績を残し、小幡の名前が全国的に広まりました。私が入社して10年ほど経ったころに先代が急に亡くなり、私は31歳のときに店を引き継ぎました。

――お若いときに引き継がれたのですね。苦労も多かったのではないですか?

【小幡知明】そうですね。もう右も左もわからないというか。花火作りには携わっていましたが、経営などに関しては、すごく悩みながらやってきました。人脈や、いろいろなノウハウを見つけるために、地元の青年団体に無理やり入ってみたり。すべてが空回りしているというか、一生懸命やっているものの、1年、2年目はなんとかがむしゃらにやったら乗り切れて、ちょっとした結果を残せたかなと思いました。

でも、3年目ぐらいから5、6年目までは、本当に一番苦しみましたね。自分が何をやりたいのかということと、社長として何かやらないといけない、ちゃんとした結果も残さなくちゃいけないというプレッシャーで、本当に何を作ったらいいのかよく見えていませんでした。何をやってもうまくいかず全部失敗するというか…そんな感じで、ものすごく苦労しました。

がむしゃらに突き進み、試行錯誤を繰り返しながらオリジナル花火の「モノクロームの華」を生み出した
がむしゃらに突き進み、試行錯誤を繰り返しながらオリジナル花火の「モノクロームの華」を生み出した【撮影=阿部昌也】


【小幡知明】でも、そんななか、オリジナル花火「モノクロームの華」が生み出せたんです。それがきっかけで、考え方が少し変わりましたね。万人に受けるための花火じゃなくて、誰かに向けた花火。一人が喜んでくれたら、周りの人も喜んでくれるんじゃないかと気がついたんです。それが自信にもつながりました。それから大変ではあったものの、だんだん楽しみながらやれるようになりました。

【小幡知明】そして、技術のレベルもだいぶ上がって、経験も積んできたので、本当にみんなでいろいろとおもしろいものを考えられるようになりました。ちょうどいい体制になった2018年(平成30年)に工場を建て替え、その翌年、秋田の大曲の花火大会で内閣総理大臣賞を受賞しました。割り玉の部と自由玉の部、創造花火、スターマイン、昼花火の4部門で競技がありましたが、「尺玉二発」が両方優勝して、創造花火が2位でした。あのときは、社員一同で喜びを分かち合いました。

――先代の偉大さがプレッシャーになったりはしませんでしたか?

【小幡知明】いや、家ではただの酔っ払いでしたからね(笑)。尊敬の対象というよりは、亡くなってから周りの人に「お前の親父さんはな」みたいな話を聞かせてもらって、「ああ、やることはやったんだな」って思ったくらいです(笑)。

――厳しさといった部分ではいかがでしたか?

【小幡知明】厳しさもありましたが、結局やり続けたというか、挑戦して始めたから引くに引けなかったところもあったのではないかと思っています。先代から続けることの大事さを学びました。

――屋号に込められた想いを教えてください。

【小幡知明】屋号は、先代のこだわりなんです。当初は小幡煙火店という名前でしたが、一般の人たちにわかりにくいという理由で、1993年(平成5年)5月に社名変更しました。かつて菊屋という屋号があったらしく、それを使って「菊屋小幡花火店」にしました。菊屋を名乗り始めてから年数はまだ浅いですが、「菊屋さん」と愛着を持って呼んでもらえるんです。小幡さんと呼ばれるのも悪くないですけど。ですから、屋号の重要性は強く感じていますね。

【小幡知明】菊は花火の総称的な部分が強いので、先代もこだわっていた丸い花火とか、真円を描くという使命感がありました。そのこだわりが屋号にも表れています。屋号に関してはそんなところです。いかに丸い花火を作るかっていう思いは強いですね。

花火を丸く打ち上げる意識をロゴで表現。まだ半人前という謙虚な気持ちと、奢らずに真面目にやり続けたいという想いを込めてデザインされたTシャツは、公式サイトで販売中
花火を丸く打ち上げる意識をロゴで表現。まだ半人前という謙虚な気持ちと、奢らずに真面目にやり続けたいという想いを込めてデザインされたTシャツは、公式サイトで販売中【撮影=阿部昌也】


美しき花火の裏側、菊屋小幡花火店の努力と工夫

――競技会の花火などは、打ち上げたときに手応えがわかるものなんですか?

【小幡知明】自分で「いいな」と思ったときに入賞しないことがけっこう多いんですよ(苦笑)。自分は、反省点が気になるタイプでして、「あそこをもう少し、こういうふうにやっておけばよかった」とかっていうのがあるので、「本当によかった」と思えたうえで賞をもらえることはかなり少ないですね。だけどオリジナルの「里山の忘れ柿」という花火は、審査員の方々にもすごく評価されました。花火の整合性がすごいって。一般の人も「どんな花火なの?」って楽しみながら見て、「あ、なるほどね」って納得してもらえるような玉が生まれました。実はその前から作っていたんですけどね。

――前から作っていて、それが結果に結びついたんですね。

【小幡知明】そうですね。それが一番勢いに乗っていたころで、翌年の競技会はコケたんですけど、それには理由があって…大会提供の花火もやらなくちゃいけなくて、そっちに力を注ぎすぎたんです。まあ、言い訳してもしょうがないですけどね。

――それは難しいですね。

【小幡知明】難易度もそうですが、それ以上に「またちゃんと見せなきゃいけない」というプレッシャーがありました。体制的な難しさも感じました。野村花火工業さんは毎年しっかりとやり続けているなって思いますが、それはまだ私の至らないところだと思います。とはいえ、調子がいいときと、(モビリティリゾート)もてぎさんで花火をあげるときの内容がかなりリンクしていて、いい形になってきたなというときはお客さんの反応が非常に高かったです。ただその後、一番ノリに乗ったタイミングでコロナが来てしまったという流れでした。

――確かに、コロナのタイミングもありますね。ちなみに、先ほど教えていただいた「玉名」はどういうふうにつけるものなんですか?

【小幡知明】玉名のつけ方はいろいろあるんです。まず花火を作って、それが何かに見えたり、現象をそのまま言葉に表した玉名もありますし、逆にこういう玉を作りたいというイメージを先に持ってから名前をつけるパターンもあります。「里山の忘れ柿」は田舎の風景や情景を描きたいなと思って作った花火です。そのためにはどういう構造にしたらいいかを考えて名前をつけましたね。うちはどちらかというと、イメージを先行させて、名前を出しながら玉を変化させていくやり方です。

――オリジナルの花火を作るときは、どう作っていくものなんですか?

【小幡知明】若いころは「これをやらなきゃいけない」「何かを作らなきゃいけない」と苦しみながら生み出していました。でも余裕が出てくると、「こんなの作ったらおもしろいんじゃないかな」と遊び心を入れてやるようになります。最近はフランクに「こんなのどう?」と口に出して、みんなに考えてもらいながら作ることが多いです。

――思い描いていたものを実際に打ち上げてみて、チェックを繰り返しながら作っていくんですか?

【小幡知明】そうですね。新しいものを一発で生み出すのは難しいんです。スターマインや創造花火で新しさを出すこともありますけど、新作花火コンクールといった毎年新作を求められるコンクールは苦しみしかないです。やりたいことをそれぞれがやりつつ、それをちょっとずつ伸ばすほうが進化できる気がしますが、あまりに新作を求められると無理して事故を起こすことだってあります。でも求められると見せなきゃいけない。みなさんいろいろ試行錯誤しながら、ある程度、無理してやっていると思います。今の流れはもっと原点に近い形に戻ってきている気がします。

――玉を詰めながら、画をイメージができるものなのでしょうか?

【小幡知明】いや、全部が全部思いどおりにはいきません。イメージを持って作っても、実際にやってみると「ああ、こうしたほうがよかったのか」ということがあります。それをちょっとずつ変えながら作っていく感じです。

花火の制作工程。玉の半分に星を敷き詰め、真ん中に割るための火薬をセット。もう半分と合体させてテープで仮止めする
花火の制作工程。玉の半分に星を敷き詰め、真ん中に割るための火薬をセット。もう半分と合体させてテープで仮止めする【撮影=阿部昌也】


――ということは、毎年上げる玉でも少しずつ差異があるわけですか?

【小幡知明】そうですね。いいものは同じような作り方をしていますが、原料が変わってきたり、有機物を使っているので、多少の違いがあるんです。

――先代が多重芯ブームの火つけ役だったんですよね。

【小幡知明】そうですね。でも、反面教師みたいな部分もあります。花火の芯をどれだけ入れてきれいに見せるかというのは、確かにいっぱい入れるときれいなんですが、崩れることが多いんですね。技術的には大変ですし、お客さんが見て歓声が湧くならいいんですけど、観客の方と同じ視点で多重芯の花火を見ることで、時々「お客さんはこれを本当に求めているのかな?」と思うこともあります。もっとわかりやすく楽しめる花火のほうがいいんじゃないかなと。

――ご自身が担当する花火の打ち上げ時はどこにいるのですか?

もてぎ(モビリティリゾートもてぎ花火の祭典)では観客席の真上で指示出しをしながら、肌で空気感を感じるようにしています。これはひとつのこだわりなのかもしれないですね。多くの場合、花火屋さんは現場で仕事をします。片付けもあるし、次の現場のことなどを考えると、現場の真下にいたほうが効率がいいんです。でも私は、お客さんの反応が一番大事だと思っていて、ちょっとした間であったり、“待てる間”と“待てない間”を見極めているんです。

――それはやはり客席じゃないとわからないと。

【小幡知明】わからないんですよね。これを最大限活かしているのは、高崎まつり大花火大会です。おおむね50分ぐらい上げるんですよ。プログラムはスターマインと、何号玉を何発とか繰り返しですが、そのプログラムすら読み上げない。打ち上げ始めたらアナウンスが一切入らないんですよ。でも、そのタイミングとかお客さんの反応を見て、「今盛り上がってるな。拍手を受けたな」と思ったら待つし。タイミングと間は本当に重要なんです。

観客の雰囲気に合わせた間を演出する、ライブ感ある打ち上げ花火が、菊屋の真骨頂
観客の雰囲気に合わせた間を演出する、ライブ感ある打ち上げ花火が、菊屋の真骨頂【撮影=阿部昌也】


――花火のライブですね。

【小幡知明】そうなんです。まさしくライブ派ですね。うちは動画が苦手でして、動画映えしない花火なんです。その場で見ている人たちが見やすいようにしています。その空間で見ている人が見やすいように、それが基本です。目線を徐々に上にいかせたり、下でやるときは徐々に下げていったりといったことを意識しながら構成しているので、ここが見る人の満足度が高くなる部分だと思います。

詳細情報

菊屋小幡花火店
https://obatahanabi.online/

モビリティリゾートもてぎ 花火の祭典 音と光のシンフォニー
https://www.mr-motegi.jp/fireworks/
情報は2024年6月28日 17:30時点のものです。おでかけの際はご注意ください。

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